松平太郎~松平太郎~(1839~1909.5.24)正親。松平一族の旗本(百五十俵)幕府歩兵頭を経て慶応4年2月陸軍奉行並。 蝦夷共和国副総裁。 「榎本の洋才、松平の和魂」と蝦夷共和国内で人気のあった榎本の女房役、松平太郎。 この松平家は松平初代の親氏(ちかうじ)が婿養子に入ったとされる家で三河屈指の旧族である。 江戸期に幕臣となり、代々太郎(太郎左衛門)を通称とした。 太郎は、幕臣松平九郎左衛門の子で、表祐筆から奥祐筆。 歩兵頭を経て陸軍奉行並となる。 ってか全然畑違いじゃないのか? 鳥羽伏見の戦いで敗れた後主戦論を唱え、その準備を進めていたが事が発覚。 謹慎中の慶喜に「これはまさしく余の頭に刀を振り下ろすことと同じである」と叱責され職を免ぜられる。 結構激しい性格なのね。 大鳥率いる伝習隊に軍資金を用立てしたり、彰義隊隊士、春日左衛門らに陸軍隊を編成させたりいろいろと後方支援をした後、榎本の海軍に身を投じ蝦夷へ。 そういえば五平新田の駐屯中何度も転陣願いを出したのにそのままそこにいろっていったの太郎さんじゃなかったかしら?←そうそう。 もっと早く流山へ行っていたらまた違っていたのになんで転陣を止めたのかは謎です。一応「深い考えがあり」となっていたようだが、どんな考えなんだか…。 それから大鳥さんに軍資金を用立ててあげたときも散々「戦はするな」とか いって大鳥さんに(さえ)「もう戦は始まってる!」とか言われてなかったっけ? 一部の幕府方には評判悪くて「はっきりしない奴」と思われていたフシもあり。(笑) 太郎さんも転戦していくうちに(船に乗ってただけだけど)覚悟が決まったんだよ、きっと。 その証拠に蝦夷では入れ札で副総裁の地位に選ばれ、新政府軍に抵抗するが明治2年5月18日降伏。 榎本や大鳥ら同様、東京辰ノ口糾問所に禁固。 明治5年放免され新政府に出仕。 三潴県権参事、外務省七等出仕でウラジオストックに駐留するがどちらも退官。 いらい鉱山、本屋、料理屋経営に手をだすが、いずれも失敗。 明治42年5月24日、療養先の伊東河津浜に病死。 彼の人生を語るものはあまり多くなく、その晩年は不遇であったとされる。 なお、御子孫も太郎を名乗っているらしい。 円通寺に碑があります |